――― Marky on the WEB

2003/5/11
藁谷さん、ありがとう。

2003年4月15日の早朝、藁谷豊はこの世を去った。享年48才。病名は胆管癌といって、胆嚢から出てくる管に癌ができていたとのこと。11月に入院して、いろんな治療に挑戦し、2月に一度退院してきたところ、また悪くなって3月に再入院。そして4月に死んでいった。僕の師匠であり、恩人であり、ファシリテーターであった藁谷さん。
みんなの、手本であったり、安心のもとだったり、タバコ仲間だったり、反面教師だったりした藁谷さん。
いまは、もうこの世にいないかと思うと、なんとも不思議な気持がする。


藁谷さんが入院し、もう助からないということを知ってから、僕はずいぶんと泣いた。
歯を食いしばって黙って泣いたり、部屋で声を上げて布団を握りしめて泣いたり、出張中の飛行機のなかで隣の人に遠慮しながら声を殺して泣いたりした。そしてもちろん、クライアントや仕事相手の前に立ったときには、「元気よくはきはきとものを言う生意気なマーキー」でいられるようにした。
亡くなる前々日だかに病院にいったときも、泣いた。最後の別れだとわかったから、つらくて泣いた。

去る5月7日、「藁谷豊を偲ぶ会」が開催された。藁谷さんの友人や仕事仲間があつまって、実行委員会体制で行われた。300人を越す人々が集まって、藁谷さんを偲び、残された遺族とワークショップ・ミューを励ましてくれた。たくさんの温かい言葉と励ましをいただき、本当にうれしかった。実施に協力してくれた方、参加していただいた方、供花をお送りいただいた方に感謝したい。ありがとう。

「偲ぶ会」の準備は、すさまじいスピードで行われていった。イベントの「プロ」たちが集結して、舞台周りをつくりこみ、刷り物の「プロ」たちが「ワークショップ・ミューの仕事集」や「藁谷さんへの追悼メッセージ集」を編集していった。僕は通常業務に追われながら、おろおろするばかりで、あまり役割を果たせなかったように思う(そういった意味で、いろんな人に迷惑をかけたのではないかと思ってます。ごめんなさい)。

唯一の役割とすれば、スライド「一本の樹」を上映することだった。藁谷豊・監督作品、幻のスライド・プログラム。切れらてしまう一本の大きなケヤキをめぐる実話を、80枚のスライドと、カセットテープで伝えていくものだ。今となっては、スライド上映なんて、「時代遅れだよ」と言われるかもしれない。パワーポイントを使いこなせる人からみれば、たいしたことないなぁと思うかもしれない。でも、僕は、わざわざ部屋を暗くして、「カシャ。カシャ。」と音をたてて変わっていくスライド・プログラムがとても好きだ。藁谷さんもそういうアナログなところが気に入っていたと思う。

スライドの上映にあたって、僕はいつになく緊張した。藁谷さんの代理で「企画の作り方」などの講師仕事をするようになってから何度も上映してきたスライド「一本の樹」だが、今回は何か違う。前日までに、何度も練習するけれど「これだ!」と思うタイミングでのスライド送りができないでいた。不安がよぎる。

当日、スライドを持ち込んで、セットし、リハーサルをしてみると、なんだか音がおかしいような気持ちがした。どうも、声は出ても伴奏のピアノの音がはっきり出ない。ときどき、つぶれるように音が消えていく。おいおい、冗談じゃない。音響担当の田之下さんに相談するも「音響機器じゃなくて、テープが悪いかもねー」と言われる。いや、そんなはずはない。午前中にミューで練習してきたときは、もっとはっきり音が出ていた。テープのせいじゃない。

何度か繰り返してリハーサルをしていくうちに、あきらめようかという気持ちも出てきた。これ以上ためしてみても、しょうがないのか。いや、そんなことなかろうかと、一人で悩んでいた。だめもとで、自分で音響機器のところにいって、いろいろスイッチを確認してみたところ、あるスイッチをひねることで、音が格段によくなった。「これでいける!」とむしょうに嬉しくなった。本番40分前のことだったと思う。

定刻を少しすぎ、遺族が到着したところで照明が暗くなった。司会が開会の宣言をするまえに、無言で上映されるスライド「一本の樹」。

いよいよ始まる。なぜか足が震えた。

流れてくるテープの音を確かめながら、ひとつひとつタイミングを選んででスライドを回していく。何度も何度も上映したスライドだが、今回のはとくによかったと思う。うまくいったー!

最後の一枚は、今回のためにデジタリウムの松原さんが作ってくれた「監督 藁谷豊」の文字、そして暗転。会場に拍手が起こった。

照明がついて、司会の黒岩さんが開会をつげ、実行委員長をつとめてくださったSPファームの近藤さんのあいさつがはじまった。僕は、それらの言葉を耳にいれようとしながら、涙が止まらなかった。熱い涙が、流れ出した。もってきたハンカチがどんどん濡れていった。

「藁谷さんは死んだんだ。もう、帰ってこないんだ」。なぜか急に実感がわいてきて、涙が止まらなかった。藁谷さんと過ごしたいろんなシーンが、それこそスライド・プログラムのように思い出された。

ミューの事務所で、トヨタの森で、北九州に向かう飛行機の中で、クライアントの会議室で・・・
僕は、藁谷さんからたくさんのことを教わった。藁谷さんに能力を引き出された。藁谷さんに愛され、信頼され、率直なアドバイスを受けた。なぜか藁谷さんにライバル意識を燃やして、挑戦していったこともあった。ときに「反面教師にしよう」と思うこともあった。僕は藁谷さんにあこがれ、藁谷さんを尊敬し、藁谷さんを、愛していた。

ありがとう、藁谷さん。ありがとう。

藁谷さんから教わったたくさんのことを活かして、僕は僕なりに、いい社会をつくっていこうと思います。がんばるぞー!