僕は、火に対して、ときどきどうしょうもない衝動にかられることがある。
無性に何かを燃やしたくなる。
そんなことを言うと放火魔みたいに思われるかもしれないが、もちろんそういう意味ではない。
海に行って流木を拾い、たき火をしたくなる。
山に入って木々を集め、落ち葉をもやしたくなる。
小学生のときにやったように、虫眼鏡で学校のプリント(藁半紙)をこがしたくなる。
このあいだ近くの小さな森林公園にいったら、火を焚いたあとを見つけた。
だれかがそこでたき火をしていたのだ。火気厳禁なのに。
正直、とてもうらやましかった。
「ちくしょう、うまくやりやがったな」と、たき火の主に敬愛をこめて、うらやましく思う。
僕が住む東京では、なかなか火を焚くことが難しいことになっている。
そんなことを考えると、たき火をするためだけにでも、東京を脱出したいと思うこともある。
火に対するどうしょうもない衝動を抑えるためにか、
我が家ではときどき七輪で焼き肉をする。
僕は喜んで火をおこす。
木炭が赤くなるまで、ぱたぱたとうちわを扇いだり、ふうふうと息をふきかける。
たとえ小さな火であっても、火をおこすのがうまくゆくと、僕はとても安心する。
誰かが言っていた。たき火はその人の人生そのものだと。
でも、どうしてなんだろう?
どうしてこんなに火を焚きたいと思うのだろう?
東京都内を探し回って苦労して買ってきた生ホルモンを焼きながら考える。
それは本能だからだろうか?
古来から火をつかって外敵から身を守ってきた人間の本能?
本来は勝てないどう猛な動物たちに、うち勝つことができる重要な武器としての火なのか?
でも、人間は、どうして火をつかうようになったのだろうか?
そんなことを、つらつら考えながら火を眺めるは、とても気持ちよいことだ。
ふと、詩を思い浮かべる。
「火を焚きなさい」という山尾三省さんの詩。
僕はこの詩が好きだ。
とくにこのくだり
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人間は
火を焚く動物だった
だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ
火を焚きなさい
人間の原初の火を焚きなさい
やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
自分の価値を見失ってしまった時
きっとお前達は 思い出すだろう
すっぽりと夜につつまれて
オレンジ色の神秘の炎を見つめた日々のことを
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どきりとする言葉。
僕は自分の価値を見失っていないだろうか?
もう一度、
そう、何度でも自分と向き合うためにも、僕は火を焚きたいと思うのだ。