北九州市環境ミュージアムのお仕事を手伝い続けて、早や5年になる。環境ミュージアムは、2001年に開催された北九州博覧祭をきっかけに設立された北九州市らしい環境学習施設だ。
いまから100年以上前のこと、1901年に官営八幡製鉄所が作られてから、日本の産業をささえてきた工業都市・北九州は「公害のまち」という側面も合わせもっていた。煙突から出る様々な色の煙は「七色の煙」と呼ばれ、工場排水が流された洞海湾は、船の船体が痛むほどの水質悪化に悩まされ「死の海」とも呼ばれた。あまりにひどい公害によって廃校になった小学校もあるほど、北九州市の公害は激烈なものだった。
北九州市環境ミュージアムには、北九州市がどうやってその公害を克服していったのかを伝える展示と、これからの環境問題にどう向き合ってゆけばよいのかを考えるプログラムがあり、そしてそれらを伝える若きインタープリターと、経験豊かなボランティアたちがいる。いずれも僕がこよなく愛している存在だ。
北九州市環境ミュージアムの仕事をすすめてゆくために、我ながら色々な努力をしたと思う。環境ミュージアムの展示をつくるうえで、参考になるからと、北九州のしごとが決まってすぐにアメリカに渡って、先駆的な博物館や資料館を見て回った。北九州市の伝説や歴史などを調べて、その土地のもつ背景を知ろうとした。紫川という川の名前の由来や、無数に伝わる言い伝えを調べて回った。図書館や市役所の資料室をあたって、公害対策の歴史書を読んだり、住民意識アンケートの結果を見たり、地元の市民団体の種類を調べたりもした。鉄をつくるのに欠かせない石炭の産地である川上の筑豊地方にいって、石炭資料館を訪ねたり、北九州市の誇るべき自然である平尾台や、数少ない海岸線や、川を見て歩いた。若松区に大きな風力発電所ができるときは、建設現場まで足を運んだし、焼却炉やリサイクルセンターなども、回れる限りまわった。
食べ物にもいろいろチャレンジした。ホルモン、チャンポン、ふぐ、関サバ、焼きうどん、一銭洋食、かしわめし、タケノコなど北九州らしい食べ物をかたっぱしから食べ、どれも好きになっていった。
環境教育プログラムにもいろいろあるが、ネイチャーゲームや、プロジェクトワイルドなど既存のアメリカ型パッケージプログラムを紹介するのではなく、北九州の人が開発する、北九州らしいプログラムを100人を越えるボランティアの方々と一緒に開発していった。これは大変骨の折れるプロセスだったか、同時によろこびも大きかった。
施設における団体対応や展示解説を担うスタッフ=施設インタープリターの育成は、のちに僕のパートナーとなった京ちゃんに尽力してもらった。体を張った指導で、彼女たちはぐんぐん成長していった。僕は北九州市のインタープリターは、21世紀型のインタープリターだと思って、とても誇りに感じている。もともと「環境問題に関心がある」とか「自然が大好き」というわけじゃない、普通の暮らしをしていた地元のおねえちゃんが、すばらしいインタープリターに成長していった。みなさんももし機会があれば、環境ミュージアムの施設インタープリターが行う団体対応(施設に到着した来館団体のみなさんに、「こんにちは」をいい「さようなら」と返すところまで)をぜひ見ていただきたい。
ボランティアのコーディネーションは、僕の先輩である黒岩さんから、九州を愛する若者、大谷さんにひきつがれ、格段に成長していった。経験豊かなシニア層による味わいのある環境学習アクティビティの提供は、来館者の印象に深く、深く残るものだ。
●北九州の仕事をさせてもらって、僕が学んだことはとてもたくさんある
・何事も「はじめが肝心」であること
・忙しすぎたり、休みが少なすぎると、落ち着いて計画を練ったり改善する時間を持てないということ
・税金を使うことの緊張感(と、逆に民間にあるはずの緊張感がないこと)
・行政と仕事をするときの特性・性質、数多くある習慣やならわし
・自分を高く売る、どんどんアピールして地位や成果を勝ち取る、ということをしないと、いつまでたっても待遇が向上しないということ
・クライアントが発注上手じゃないと、いい成果は出しにくいということ(自分が発注するときも、発注をうけるときもそうだとおもった)
・施設運営には「全体を見渡せる人」の存在が重要であること
・東京の価値観や貨幣感覚とは、まったく違う地域や文化もあるということ
・人間が長年つちかってきた感覚は、そうは簡単には変わらないということ
・それでも誠意を持って、接していくと変化もおきうるということ
・意外と地元の人で地元のこと(歴史や魅力やポジショニング)を知らない人が多いこと
・九州の魅力。たべものや焼酎だけでなく、人情・人柄・誇りの持ち方などにはすばらしいものがあること
などなど、たくさん。
もちろん失敗や、思うようにやれなかったことや、うまくいかなかったことや、トラブルなどもたくさんありました。僕の力不足だったことはたくさんありました。くやしいとおもったことも、あります。
しかし、それ以上に、貴重な学びと素晴らしい機会を与えてくれた5年間でした。北九州市のみなさんに、心より感謝します。2005年の3月で、北九州市の仕事はひとまず終わりになりました。でも、これからも北九州市と、北九州市環境ミュージアムに縁があったみなさんを応援していきたいと思います。
本当に、本当に、ありがとうございました。