――― Marky on the WEB 2006/12/28 僕の今年の目標の一つに「ファシリテーターの職業倫理を整理する」というのがあります。今回はこれについて、少し考えてみたいと思います。 近年、注目を集めている「ファシリテーター」とか「ファシリテーション」。 本屋さんにたくさんの書籍がならび、ファシリテーターに関する講座が花盛り。 従来のまちづくりや、心理学、教育、環境学習などの分野のみならず、ビジネスの世界などに一気に広まっているという印象を受けています。 NPO法人日本ファシリテーション協会も設立され、会員数もうなぎのぼりとのこと。 (僕は入会していないので詳しい数字は分からないですが、代表の堀さんや、事務局の方に、そう教えてもらいました)。 日本にファシリテーターという役割や職業を定着させたいと思っていた僕としては、とてもうれしい状況です。と、同時に、少し心配なことも出てきています。 それは「技術」ばかりが先行して普及してしまい、ファシリテーターがもっているべき「態度」や「倫理」、「人間としての姿勢」、「なぜファシリテーションをするのか?」といった肝心なところが抜け落ちているような気がするからです。 ときどき見かけるのが、以下のような質問や依頼の打診、問い合わせです。 「うちの地域の住民参加型会議をやるのだが、住民から反対案が出そうなので、ファシリテーションの技術をつかって、うまくまるめこんでほしい。」 「ファシリテーションを学びたいのは、うまく部下や同僚との会議を操作し、自分が思う方向に会議を収束できるようになりたいからです。」 「企業の会議は民主的に、というわけにはいかない。部下のモチベーションを上げるためにも表面的には参加型にはしたいが、結果としてでる結論は握っていたい。そのための手法を教えてほしい。」 といった類のものです。こういった視点でファシリテーションの技術を活用しようと思う人は、増えていると僕は感じています。 これらの発言には、ファシリテーションというものに対して誤解している側面と、理解はしているけれど倫理的に間違った活用がされているという側面があるように思います。 その最たるものは、先日話題になった、小泉政権下でのタウン・ミーティングでの「やらせ発言」問題です。心ある進行役(もしくは会議事務局、もしくは発言を依頼された参加者)であれば、いくらお金をつまれようとも、圧力で押さえつけられようとも、断固として断るべき倫理的な問題です。 民主主義を冒涜する、やってはいけない会議のワーストワンと言えます。 ある教師がやらせ発言を依頼され、受け入れたと聞いて、僕はとても残念に思いました。大人たちがその体たらくで、どうやったら民主主義を子どもたちに伝えられるでしょうか? 実際に、ファシリテーションの技術を応用すれば、いくらでも悪用することができます。人々の意見を操作してある結論めいたものをつくったり、憎しみや憎悪をどんどん引き出したり、集団でのいじめや、個人攻撃を促したり、その地域や組織からある気に入らない人を追い出す、など、悪いことがいくらでもできます。 僕はファシリテーションの技術を伝えるときに、同時に、その「心」を伝えてゆかないと、いまに大変な社会になってゆくのではないかと、危惧をしています。 自分自身の戒めとして、倫理観をもって仕事をしてゆきたいものです。 「医学の父」と呼ばれた古代ギリシアのヒポクラテスは、医療に関わる人間には「倫理」が必要であると考え、こんな言葉を残しています。
医学で学んだ手術や投薬、麻酔の技術を使って、悪用する人が増えたとしたら、それは大変ひどい社会になるでしょう。 そのため、この2000年以上も前に書かれた、この誓詞は、今もなお、医学を学ぶ人たちに必ず伝えられているそうです(必ずしも全ての医師によって、これが守られているわけじゃないとは思いますが、、、でもとても必要なことです)。 ファシリテーションに関わる人間にも、同様な倫理が必要だと僕は思っています。いちファシリテーターである自分自身の誓いとして、ここに書き表そうと思います。
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