――― Marky on the WEB
青木将幸ファシリテーター事務所

2007/08/09
ワークショップの源流を探る読書会&体験会
報告 その2「『学校と社会』を読んでみて」

ジョン・デューイという人が書いた『学校と社会』という本を読んでみて、なんどか思ったのは「これ、いつの時代に書いたの? 本当に100年前?」ということ。

デューイが「旧教育」を批判し、そのオルタナティブとしての「新教育」の実践として、シカゴ大学付属の実験学校なるものを立ち上げたのが1897年のこと。実に100年前に立ち上がった実験学校の基本的な考え方を書いてあるのがこの本なのですが、うーん、今の時代も、まだ「旧教育」をやってるんじゃないかと、うならされた一冊でした。

100年前の時代背景がよくわからないと、正確に理解できないところがあると思いますが、例えば、こんなことが書いていました。

「子どもの立場から見ると、学校における大きな浪費は、子どもが学校の外で得られる経験を、学校の内部で十全かつ自由に、有効に利用することがほとんどできないことに由来するのである。しかも、他方において子どもは自分が学校で学んでいる事柄を日々の生活に応用することもできないのである。このことは、学校の孤立―生活からの学校の孤立を意味する」    第3章「教育における浪費」より

デューイは学校と社会が離れ、学校と生活が離れていることを問題視していたようです。この視点は、僕自身も常々考えていたことであったので、深く頷いたところです。

以前、ワークショップというものは、生活者の視点からくる知恵や意見=生活知と、専門家の知見=専門知を、縫製するような場所である、という話を聞いたことがあります。

例えば、まちづくりや、建築の世界において、なんでも「専門家まかせ」にしてしまうと、場合によっては弊害がでてきます。そこで、私たち生活者自身の実感や、感じるとことろをひとつの起点として、語り合い、あるべきまちの姿をつむぎだす、まちづくりワークショップの意味があるのだと。

どんどん発展し、高度化し、専門家まかせになっていく社会の冒頭に、デューイは、「学校と社会」をもう一度つなぎなおすことを考え、実践しました。その教育の方法については、以下のような言葉に現れる教育哲学があったように感じました。

「もし、あなた方が、40人とか50人とかの子どもたちがある所定のレッスンを学び、それを教師に向かって復唱してみせることを目的にしている場合には、あなた方の訓練は、そのような結果を確実に得られるためにゆだねられなければならない。

しかし、ある展望のもとにおかえれた目的が、社会的協力と社会的生活の精神の育成にあるというのであれば、訓練はそのような目的から生じ、そのような目的と関連するものではならない。」     第1章「学校と進歩社会」より

後半はちょっとわかりにくいかもしれませんが、ようは、どういう子どもを育てたいかによって、学び方のスタイル自体を切り替えていく必要があるよ、ということいってます。また、「なぜ、それを学ぶ必然性があるのかわからない」状態で講義を聴いても、まず身に付かないだろうということもいってます。

デューイは実験学校において「子どもを中心に、子どもを太陽にして、その周辺をさまざまな教育装置が回転する」というやり方を提案しました。

ワークショップでいうところの、「参加者を中心にする」ということ、もしくは心理学のカール・ロジャースがいっている「カウンセラー中心主義ではなくクライアント中心主義」の考え方との共通点を感じました。

第2回読書会においては、上記のような視点を含め、それぞれが『学校と社会』を読んできての感想を話し合われました。その時でた意見で印象的だったのが「子ども中心主義、といっているが、教育者が用意したある枠のなかでの子どもの自由なのではないか?」というものです。

ワークショップでもそうですが、参加者を中心に、完全に非構成的な枠組みで、用意したプログラムはなく、まったくフリーに作られてゆくものもあれば、主催者やファシリテーターが用意した、ある枠のなかでの自由さのあるプログラムもあります。また、完全に構成されていて、Aをしたあとには、Bの体験をし、その5分後にはCの体験をする、というタイプのものもあるようです。

これから、私たちがやるワークショップにおいては、どこまで自由で、どこまで参加者中心で考えるとよいのか? なんてことを考えるよい機会でした。

デューイのことについては、あまりに色々な学びや発見があったので、うまく書き切れません。今日はここまでにして、またの機会にもう少し書いてみたいと思います。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。