――― Marky on the WEB
青木将幸ファシリテーター事務所

2007/11/28
「生と死の共育ワークショップ」報告

去る2007年11月17日

「もう死にたいという友人にあなたはどう接するか?」

というディープなタイトルのワークショップを開催した。

あまりにも強烈なワークであったので、今(3日後)もまだ、ぼーっとしていて、自分自身の正体が、つかみきれていないような感じ。

このワークショップは、関西に住む友人の川中大輔さん(シチズンシップ共育企画)との共催で行われた。

「ファシリテーション」や「市民による広報」、「研修のつくり方」など、かねてから様々なワークショップを共に開催してきた我々であるが、スキル系、テクニック系だけでなく、より根本的な世界を探求したいという思いを共有していた。

そんなか、お互いに身近な人の死と出会うことがあって、ふだんとはまったく経路の違う「死」のテーマのワークを手がけることになった。

このような深く、想像を絶するテーマのわりには、僕たちは未熟者だという判断もあって、2人ゲストに加わってもらっての開催となった。

一人目は浄土宗大漣寺・應典院の住職、秋田光彦さん。應典院は日本で一番若者が集まる寺として知られている。「呼吸する寺」をコンセプトに、アート・仏教・死などをテーマにさまざまなワークショップを展開している。近年では生前葬や、生前故人墓など、葬送文化に対しての積極的な提案を行っている。

僕の印象では、とても強烈な、強いエネルギーを持った坊さん。かねて幼少のころから坊さんにあこがれていた僕としては、社会との関わりを念頭においた、大乗仏教を地でいく尊敬すべき存在に写った。

もう一人は、聖マーガレット生涯学習研究所(SMILE)の長尾文雄さんだ。長尾さんは関西いのちの電話のトレーナーや、不登校児支援に関わる学生のコミュニケーション・トレーニングも長年つとめていらっしゃる。お会いした瞬間に敬意をもって接していただいたなぁと温かいもの感じてしまう、静かな、深いファシリテーターだ。

ワークの内容はいたってシンプルだった。

はじめにA4のコピー用紙4枚をつかっての自己紹介。なぜ、自分自身がこの席に座るに至ったかを、それぞれに語り合った。関西・関東から集まった参加者とゲストがそれぞれに語り合った。不覚にも、この自己紹介を聴いているだけで、何度か涙があふれた。こういうテーマで集ってくる人々には、それぞれに深いストーリーがある。お話を聞けたことに深く感謝している。

次に、3人一組でロールプレイングを行った。

1人は自殺志願者。もう1人はその友人。最後の1人は観察者。という組み合わせで7分交代で、3つともの役を演じてみた。たったの7分間という短い時間のロールプレイに、それぞれの死生観、友人との忘れられない対話、自分自身との対話から生まれた言葉がにじみ出てきた。それぞれのロールプレイが終わった後に、全体で感想を話しあいましょうと、進行役の川中さんから提案があった。しかし、僕が入っていたグループのメンバーから、「この3人で話してみたい」という声が出されたため、全体での話し合いを中止し、ともにグループワークを行った3名で感想を交わし合った。ここでは書ききれないけれど、とても意味深い時間となった。

昼食をはさんで、午後は應典院のとなりにある大漣寺の本堂に集合。

先ほどまで作務衣を来ていた秋田さんが、しっかりと袈裟を着て、「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と読経し、木魚を打ちながら参加者を待っていた。このお寺の由来、仏教が考える共生、生死、供養、此方(この世)と彼方(あの世)のつながり、自死に対する考え方など、衝撃的な講釈を聴くことになった。

その後、僕が自分自身のストーリーを語ることになった。「親というものは、明日死ぬかもしれないのよ」という母親の教え、祖父母を看取る母の気持ち、師匠や友人の死に接して感じたこと、うつ病で苦しむ友になにもできなかった悔しさ、それゆえに心の側面を解する人間であるために自分自身を鍛え始めたこと、娘の誕生、日本の冠婚葬祭をもう一度みつめなおすプロセスに入っている、、などの話をさせてもらった。

話せば話すほど、秋田さんのような深い話ができないなぁという恥ずかしさ(年齢、経験からいっても深さが違うのは当たり前か、、)を感じつつ、自分自身の正直な「今」について語った。

最後にもうひとりのゲスト、長尾さんからのお話を聴いた。長尾さんも自分自身のストーリーについて語られた。自分が筋ジストロフィー症にかかって、その病を受け入れてゆくまでのプロセス。cure(治療)とcare(世話)とheal(癒し)の違い。覺(おぼえる)という行為の意味(あなたのことを時々、思い出してはどうかなと思っているよ)などをお話いただいた。

その後はフリートーク。

いろいろなやりとりがなされたけれど、あまり細かくは憶えていない。

このワークから自分自身が感じたこと、学んだことは

・寿命が尽きて死ぬ、という意味の「死」についてはおそれなくてよいような感じになった。しかし、それと自死を肯定するということは別問題

・「もう死にたい」という友人がもし現れたら、あらゆるものをなげうって、まずは心から接するようにしたいと再確認

・人生、生きている間に、自分自身を精一杯生き抜くべし

・自殺問題に関心を持つのと、環境問題に関心を持つことには、何かしらの共通点がありそう

・その時はつまらない、聞いていないような話でも、その人にとって古層をなすように、しっかりと身に付いてゆくものもあるんだなぁ

ということです

まとまっていないですが、衝撃的なワークだった、というレポートでした。

このテーマについては、どう接してゆくべきか悩み中ですが、なにかしら川中君や最近いっしょにやっているエレックとかと深めていきたいと思います。