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青木将幸ファシリテーター事務所

2010/10/16

あなたは誰に看取られたいか? 生と死の共育ワークショップvol.4 レポート

 


実施日:2010/10/16
主催:シチズンシップ共育企画
共催:應典院・青木将幸ファシリテーター事務所

 

 

川中大輔さんが代表をつとめるシチズンシップ共育企画と、我が青木将幸ファシリテーター事務所とで、生と死の共育ワークショップvol.4 「あなたは誰に看取られたいか?」を企画・共催させて頂きました。場所は大阪、應典院という日本で一番若者が集まるお寺。2010年10月16−17日に開催されました。

川中さんとは、かれこれ、ここ4年ほど、「生と死」をテーマにしたワークショップを展開中。両者とも、全国各地を駆け巡り、会議の手法や、市民活動のスキル、協働のコツなどといった「具体的で実践的なスキル」を提供・駆使する仕事も多いのですが、年に一度ぐらい、こういうテーマを大事に扱ってもよいよ、という認識がある仲なのです。めまぐるしく動くこの時代を、実に忙しく生きている同世代の仲間達に、こういった視点も、ぜひ共有したいという動機があります。

「死を思うことは、生を思うこと」。僕にとって、年に一度のこのワークショップは、日々の忙しさに飲み込まれるのではなく、いったん落ち着いて、本質的に自分という人間が、どう生きてゆきたいのかを確認するよい機会となっています。

過去3回のテーマは「もう死にたいという友人にあなたならどう接するか?」「自分のお葬式はどうあげられたいか?」「老いを表現する」というディープなもの。いずれも、日常の多忙な社会から一歩引いたところにあるよきテーマで、学び深いものでした。今回の「看取り」を終えて、ひとまとまりになってきなぁと感じています。ようやく、これらのテーマが自分の体に定着してきた感があります。

私たちは、誰もが、生き、老い、そして死ぬわけです。仏教では、人間は、生老病死という四つの苦しみから逃れることができない、とも説いています。

人は生まれる時に、色々な人のお世話になります。そして、病に苦しみ、老い、亡くなる時にも、基本的には、誰かしらのお世話になる。そのお世話になるプロセスのはじまりが「お産」であり、終わりが「看取り」です。この両者に共通するのは「自分の力では、どうしょうもできないことが多い」という点。同時に、それは他者とご縁を深く結ぶことができる機会とも言えます。

今回は、ゲストに菜の花診療所の岡崎さんという看護師さんをお迎えしました。岡崎さんは、もともと大学病院で勤めていた方ですが、人が亡くなるプロセスで、薬や点滴のチューブだらけになって、寝返りも打てずに不自由な最後を向かえるのが、本当によいのだろうか?と悩んできたお方です。志を同じくする仲間達と「自分が主人公として死んで行ける診療所」を自分たちでつくります。1年間で7500万円の出資を集め、1992年に診療所をオープン。このファンドレイジングの努力だけでも、相当大変だったと思います。以来、「出かける医療」をモットーに、在宅で死を迎える方々によりそう日々を過ごしています。

ワークショップ当日も「今朝がた、お一人、お看取りさせて頂いて、ここにきました」という岡崎さん。多くの出会いと別れのなかで、印象に残った6人の方の「お看取りストーリー」を伺い、そのなかから、「看取る」ということが何なのか、学ぶ貴重な機会となりました。

「看取り」というと、重苦しく、悲しく、大変なことばかり想像されるかもしれません。しかし、岡崎さんの口からは看取りの「すばらしさ、意義深さ、ありがたさ」が次々と語られます。

以下は岡崎さんの言葉で、印象的だったものです

・看取りとは、その人の人生から学ぶこと。
・看取りとは、いがみあった家族が、最後に和解できる機会。
・看取りがきっかけで、地域のご縁が広がり、ネットワークができることもある。
・死者は、残された者に何かしらのプレゼントを残す。それは人と人とのご縁であったり、暖かい言葉であったり、「家族は愛し合って生きるんだよ」というメッセージであったりする。

 

一般的に、「あなたはどう死んでゆきたいですか?」と問われると「周りに迷惑をかけないように死にたい」と答える人は多いものです。しかし、現実は、そうは思い通りにゆかない。何かしらの迷惑や、お世話をされることが大半。だからこそ、健康な私たちは、他者を看取ったり、お世話をする必然があるのです。

彼女のお話を聞いて「あぁ、迷惑をかけて死んでいっていいんだ」と素直に思うことができました。そのことを岡崎さんに伝えると、「そうなんです、迷惑のかけあいなんですよ」と答えて下さいました。

岡崎さんが看取りのプロセスで大切にしているのは、「体を拭く」ということ。生前に体をなるだけ清潔に保つ。亡くなったばかりの死者の体を、家族とともに拭く。特に、臨終の後、体を拭いて、本人が好きだった洋服を着せたりするプロセスで「癒される」のだといいます。

これは、「体を美しく保つのは、人間としての尊厳を保つこと」という考え方に基づいてのこと。大晦日ともになると一日に16人もの方をお風呂にいれ、美しさとともに正月を迎えられるようにとがんばるようです。風呂に入るのは皆、助かる見込みのない末期ガンの患者さんだったり、骨肉腫や認知症で苦しむ方々だったりします。懸命に体を清め拭く岡崎さんの姿勢は「献身」という言葉があてはまるように思いました。

岡崎さんからお話しを聞いたあと、参加者同士で、「自分たちは、どんな看取りをしてゆきたいか」「自分自身が死ぬ時は、どんな風に看取られたいか」を語り合いました。みな、口々に、満足して死んで行きたい、親しい人に囲まれて死んでゆきたいと言います。もし、そうだとしたら、そう死ねるためにも、私たちが今をどう生きるかがカギを握ります。

そう、まさに「死を思うことは、生を思うこと」なのです

翌朝。大漣寺で、朝のおつとめを終えて、秋田住職からお話しを頂きました。仏教と看取りについてのお話し。

明治時代、軍医であった森鴎外がヨーロッパからさまざまな医療技術を持ち帰ります。その過程で「これは日本に持ち帰らなくてよい」と判断したものがありました。それが「看護法」だったそうです。なぜ、森鴎外は「看護法」を持ち帰らなかったか? なぜなら、当時の日本では「看取り」はお坊さんが十二分にやっていたからだそうです。とくに浄土宗では、人は無くなったら極楽浄土に向かうことになります。お坊さんのなかには、人を浄土にお見送りをする役割の僧=看護僧もいたとのこと。なかには、「早く浄土に行きたい」という気持ちから、死を心待ちにする「一心待死(いっしんたいじ)」という考え方もあったそうです。人は死に、浄土に行き、また仏となって衆生を救いにこの世に戻ってくるという「回向」の考え方にも触れていただきました。また、今でこそ「無縁死」という言葉で使われている「縁」という言葉のもともとの意味あいや、お寺がかつて権力などから一歩距離をおける「無縁所」として機能していた歴史も伺いました。日本人の死生観を理解するうえでも、大変、印象深いお話しでした。

私たちは誰もが、死にます。

これは万人に共通のことです。しかし、「どう死んで行けばよいか?」といったことや、「死にゆく人を、どう看取ってゆけばよいのか?」といったことを真正面から学んだり、考えたり、扱ったりする機会は、滅多にありません。このような機会を持つことができたことを、僕は幸せに思います。

参加者のお一人が教育委員会で働いている方でした。「こういうテーマは、なかなか公的機関ではあつかえない。民間ならではだ!」とおっしゃっていたのが印象的です。そういった意味でも、よきチャレンジをさせて頂きました。

そして、日本国内に8万もあると言われているお寺で、生や死についてのことを、より気軽に学べる機会が増えたらいいのにな、と考えた機会でした。ご一緒いただけそうなお寺の関係者の方、いらっしゃいましたら、ぜひ声を掛けて下さい。

思えば、僕の本業の「会議」は、英語でミーティングと言います。ミートする場所、出会う場所、今を生きる者同士が、縁を紡ぐ場所でもあるのです。会議やワークショップを通じて、よきご縁が生まれるきっかけになれば、幸せです。

長文を、最後までお読み頂き、ありがとうございます。

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