――― Marky on the WEB 2010/12/29 実施日:2010年12月26日
ご一緒したのは、川崎にあるお寺 等覚院さん。発案は、僧侶ファシリテーターの中島光信さん(等覚院)でした。僕はこれまで、アイスブレイク100連発!という主催事業を展開してきました。ある講座で、「アイスブレイク100連発、またやらないんですか?」と聞かれることがありました。「自分のなかで、アイスブレイク不要論 というのが持ち上がってきて、あまりやれてないんです」と答えると、となりにいた光信さんが「じゃあ、煩悩108連発は?」とご提案頂いたのがきっかけです。かねてから、お寺で楽しいワークショップをしたいと思っていたので、このナイスな提案をいただき、開催にこぎつけました。 副題は〜「2010年、こんな煩悩に翻弄されました」を語ろう〜。 20代から70代の男女24名が集い、実にさまざまな煩悩を語り出しました。それらを大きな曼荼羅にし、「煩悩マンダラ」をつくりこむという趣向のワークも行いました。 オフィシャルなレポートは、等覚院のサイトをご覧下さい。 以下は、僕個人の感想や、書き残しておきたいメモのようなもの。 年末に、互いに煩悩を語りあうだけでも面白いのですが、仏教的に見て「煩悩」とは何なのか、その根源はどこにあるのかというレクチャーがあったのも、たいへんよかったと思います。仏教では、煩悩の根本・三毒といわれるものがあります。「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)」の3つです。「とん・じん・ち」と言うそうです。 「貪」という漢字は、「今」に「貝」を書くそうです。昔は貝殻がお金の代わりだったので、「今も、今この時も、お金(もしくは価値あるもの)に執着している」というのが、「むさぼり」とのこと。うーん、漢字の由来をこうやって聴くと、本当に深いなぁと感じます。 「瞋」という漢字は、見慣れない文字ですが、「いかり」という意味だそうです。「真実に対して、自分の目線が入ることで、<なんで自分だけが評価されないんだ>といった気持ちがわき起こってきたり、他者と比較して憎しみを持ったりする心」とのこと。うーん、この煩悩、僕にあるなぁ、、、と深く心に入ります。 「癡」というのは、愚癡の(癡)でもあるようですが、これまた漢字の成り立ちが面白い。疑うという字に、やまいだれがつきます。真理、道理を知らず、真実をそのまま謙虚に受け止めるのではなく、あれこれ疑う気持ちをもち、気持ちがぐるぐるして、やまいのように思い悩む、人間の「おろかさ」を指すとのこと。 さらに、これらの根源が「我執(がしゅう)」にあると考えるようです。「自分が、自分が」という気持ち。自分の持つものの見方や、正しさや、傲慢さ、我欲といったものが、煩悩を引き起こすのです。 だからこそ、省みることが大事。反省の「省」の文字は、「自分を少なくする」と書きます。自分が固執している自分流のものの見方を少なくし、全体を見る、真実を見る、道理を知ることの大切さを感じる講義でした。 このお話しをきけただけでも、このワークショップをやってよかった、ありがたかったです。 思うに、様々なワークショップで行っていることは、「我」から離れ、「省」みることではないかとも思います。人はそれぞれ、「自分が正しい」と思ったり、「自分のものの見方」にとらわれている部分があります。これらをいったん外し、ことの真にふれてゆくプロセスは、実に豊かな時間ではないでしょうか。 自分が何にとらわれているのか(我執)を自覚し、そのことを見つめるというのは、有意義な時間。自覚することで、次の展開が開けてきます。 冬のお寺。凜とした空気のなかで、自身の一年を見つめ、新たなる一年を迎える準備ができて、よかったなぁと感じています。 個人的には2010年のヒット・ワークショップです。今後、いろいろなお寺などでも展開できるのではないかと考えています。ご一緒できる機会・寺系、宗教施設系のコネクションのある方、うちの地域でもやってみたいと思った方、こういうスタイルの忘年会を開いてみたいという方、ぜひ声をかけて下さい。
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