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青木将幸ファシリテーター事務所

2011/4/20
Deep in熊野vol.2「南方熊楠ってどんな人?」実施レポート
@都内某所

実施日:2011/4/10
主催:青木将幸ファシリテーター事務所
ゲスト:大竹哲夫さん(熊野エヴァンジェリスト)

桜舞い散る4月10日、奇しくも東京都知事選当日。熊楠、そして彼そのものとも言える熊野に思い馳せるひとときに心惹かれた者同士が自由に語り合う場「南方熊楠ってどんな人」を開催いたしました。案内人は、熊野の魅力を現代に伝え続けるてつさん、こと大竹哲夫さん。

■雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

てつさんは、穏やかな面持ちで、車座になった10人衆に向かって、まず一首詠みあげた。かの昭和天皇が、熊楠から御前講義を受けてから33年ぶりの行幸の際に詠んだもの。

熊楠への扉(?)が開けられようとする中、自己紹介。熊野のご出身の方、熊楠が一生をかけて研究した粘菌が大好きな方、熊楠のことは初心者だけど昨日に引き続き参加された方、熊楠の文献、著作、図版などかなり読み込んでいらっしゃる方、、、などなど。

多彩な顔触れの参加者たち。
 

                        熊野の名菓、お茶、桜を愛でながら・・・

 

■Q.熊楠について、この辺が知りたい!聞いてみたい。

どんなに初歩的なことでも、聞いていいの?ちょっと考えあぐね、様子をうかがう参加者に「私で答えられることなら(何でも)」という頼もしいてつさん。

まずは、そもそもいつ、どんな勉強し、なぜ有名なのか、というテーマで。
―約100年前に活躍。生物学、民俗学、人類学、宗教学、果ては性愛学などなど探求の分野は計り知れず、民俗学に至っては柳田国男と並ぶ創始者であり、柳田国男「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」と云わしめたというのだから驚きです。日本にとどまらず、アメリカに渡り、その後キューバにてサーカスの一団に同行したこともある。さらには、英国大英博物館にて東洋学の資料整理に携わるも血気盛んな逸話は数知れず。帰国後は熊野にて骨を埋めるまで、世界最高峰科学雑誌「Nature」に、約50編もの論文を発表。これは日本人として最高記録。写真でもあるとおり、すっぽんぽんで過ごすことも多かったみたいです。

・・・つまりは、色んなことを勉強し、どれも一流かつ国際的に認められる論文を書きつつも奇人である、と。
初めは緊張していた参加者の場がほぐれてくると共に、「熊楠の残した学問的業績の解明と展望は?」「紀北の生まれなのに、なぜ“熊野人”足るのか。」「猫語って話せたの?」「BL(同性愛的経験)って?」等々、質問はディープ、かつ多岐にわたって行きます。

“歩く百科事典”とはよく言ったもので、現代で言うところのWikiっぽい人、とでもいうのでしょうか(笑)
起きた時間、寝る時間まで記録していたというのだから驚きです。大量の著作は、解明し切れるまでにはまだまだ時間を要することが分かったところで、参加者同士思い思いに会場に用意された著作の一部を手に取り脱帽!

南方熊楠、縁の書物の数々。図録が美しい!
 

                 参加者との対話に、耳を傾ける熊野の伝道師。てつさん

■熊野の化身?!日本初のエコロジスト

さて、佳境に入ったところで、話は「神社合祀」へ。
そもそも、神社合祀とは、時の明治政府が1906年(明治39年)以降、各集落ごとに数多ある神社を、一町村一神社を標準とせよ、というもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとしたものだそうです。
当時40歳の熊楠は、自身の植物採集を行う研究の場としての神社の杜を、そこに暮らす人々の心の拠り所としても捉え、合祀が環境を破壊し、人の心、細やかな文化、そして社会の崩壊へとつながるとして、これに反対。“野中の一本杉”など、熊楠の自然保護活動がなければ、現在熊野古道が世界遺産に登録されるだけの資産を維持できなかったと言われているほど。参加者は、こうした史実を共有すればするほど、100年前に突き抜けたエコロジー思想を持ち、すっぽんぽんになりながら人の心を説く熊楠に畏敬の念を感じずにはいられない様子でした。

■この世の本質、粘菌、南方マンダラ

てつさん流の読み解く力が、難解な著作に光を与えるようなひと時。その端的な例が、粘菌の生と死。たとえば、粘菌(変形菌)という生物は、微生物を摂食する“動物的”性質を持っている(粘菌にとっての)生の状態のときは我々人間にはあまり目につかず、やがて小型の子実体を形成して胞子により繁殖するといった“植物的”性質を持ち、粘菌にとっての死に至る過程において、初めて人間から見ると、その存在を確認できるのです。転じて、人間にとっての生と死も、非常に曖昧なもので、あるいは死の先に真実があるのかもしれない、、、
すなわち、単なる生物学的研究を行っていたわけではないだろうというのです。
南方曼荼羅においては、物事の宇宙の本質を説いている。この世が無数の因果でできており、ある物事を探求する際に、より重なり合うところがたくさんある道に進んで行った方が、得るものや成果が多い―
てつさんとしては、そんな風に読み取っているとのこと。

一見何にでも興味関心を示し、乱読、乱筆、思うままに研究に没頭した熊楠の、思考の在り方を示している。ここまで来ると、分かるような、分からんような人?!
過去の偉人という言葉がもはやしっくり来ない、そんな空気が参加者の中に漂い始めました。現代でも通用するどころか、現代においても解明しきれない部分も多く、「もしかして、未来人?」「預言者?」そんな声も。


■そんなわけで、やろう、熊楠ツアー

熊楠の神社合祀の反対運動の展開は、大衆向けに新聞に訴えるものでした。
「熊野は風景が美しい。この、美しい風景で金儲けできるようになる。だから、守らねばならない」、と。100年経ったのち、今、人々の目は熊楠が守った風景に注がれています。
てつさんは、熊野のご出身ではありませんが、熊野に出会い、調べれば調べるほど面白さ、魅力に気づき、この地の文化的価値を伝えないのはもったいない!という強い思いから「み熊野ねっと」のサイト運営に携わるようになったとか。
というわけで、開けてしまった熊楠という扉は、その先へ踏み出さずにはおれない、という機運を否応でも高めていきました。
昨日のワークショップでのご意見も含め、参加者に投げかけたのは「どんなツアーだったら行きたい?」
 
 ○何といっても、やっぱり古道。「歩こう、熊野ツアー」
 ○熊楠の愛した粘菌、キノコ、苔類等々、足跡たどる。「光るキノコツアー」
 ○ローカルルールに従おう、「サーフィンの聖地で満喫ツアー」
 ○自然信仰の足跡たどる(那智の滝、熊野各地の磐座、など)
 ○夜は、熊楠を偲んで、熊楠の父と弟が始めた造り酒屋「世界一統」の美酒「南方」に酔いしれよう

やるからには、マニアックに熊野の魅力を伝えたい、そんな意見が交わされました。


■自らの中に、熊楠を置く

以上、まだまだ伝えきれないほど、凝縮された対話が生まれました。
参加者からは、今後もこのご縁をつないでいきたい、そんな思いが寄せられました。

南方熊楠を通して、人と人とが集まり、歴史を振り返り、日本の原風景を回想する。
日本社会の近代化とともに切り捨てられ、一本化されていく激動の時代に身を置き、熊楠自らも悲哀や不遇の側面がありました。

今回の震災の前も後も、町、科学、技術、思想など数えきれないほどたくさんのものが日々変わっていきます。
でも、てつさんと参加した皆さんの時間はどこかゆったりしていて、南方熊楠が愛した熊野の時間もこんな風に流れていたのかもしれません。

過去の偉人に向き合うことで、これからの未来や守らなければいけないものを考える。そんな豊かな時間でした。
 


参加して頂いた皆様、ありがとうございました。