――― Marky on the WEB 2011/9/21
既にたくさんの報道がされていますが、実際に現地に入らないとわからないことが多くあります。 9/18の朝一番の特急列車で、熊野市入り。なんと、熊野市駅の50mほど先に陸橋があるのですが、それが大水をもろに受けて、完全にもげてしまっていて、熊野市より先、新宮方面へは電車が行けません。代替バスが出るので、実質的には移動可能なのですが、なかなか衝撃的な光景でした。急ピッチで復旧しているとのこと。復旧工事、頑張ってほしいです。 熊野市に父に迎えにきてもらい、昼食を食べたらすぐに、出発。熊野川の河口にある紀宝町の鵜殿地区、鮒田地区、小野谷あたりを見て移動。過去にも大水があったので、古い家は、車道から5mも10mも高いところに立っているものなのですが、それらの家の2Fを飲み込むように大水が出ました。見ると、建物の屋根の上に丸太があったりする。これはそばを流れる小野谷川の上流からの水だけでは、こうはなりません。本流の熊野川から、水門を超えて逆流した勢いのある水だったようです。 紀宝町井内地区を越えて、尾呂志川のそばの道を北上し、311号線を左。「これが国道か?」と思うような細い道をどんどん西に向かいます。この道は細く、かつトラックなども走ってくるので、山道になれた人じゃないとやめといたほうがいいかもしれません。途中で交互通行になっていて、北山川を越えて、新宮市の熊野川町に入ります。宮井の橋で左に入り、本宮方面を目指しますが、このあたりの被害も甚大。根こそぎ家がやられていたり、風呂桶が電信柱にささっていたり、と言葉を失う光景。 敷屋のトンネルを越えて熊野本宮大社の近くまでやってきました。ここで、みくまのネットの管理人、てつさんと、うれしい再開。本宮が水につかってから今日までの復旧のプロセスを伺いました。本宮では、若い人も含めて、皆で協力して避難をしたこと、泥だらけになった大斎原(おおゆのはら)を掃除したこと、直前に車を高台にあげたので、ほとんど被害がなかったことなど地元の方を交えて、お話しを聞きました。とりわけ印象的だったのが、明治時代にあった大水の石碑。この大水で、河川敷にあった本宮大社はすべて流され、今ある高台に移ったという歴史があります。今回の台風12号では、その石碑の数メートル下まで水が上がったようです。「ここまで水が来たよ」という記録が、みなさんの地域にないでしょうか? 歴史に学ぶべきことが、いろいろありそうです。 てつさんと、熊野再興を誓った後は、新宮市の熊野川町敷屋の廃校へ。共育学舎という個性的なNPOが運営する素晴らしいスペースだったのですが、完全に水に埋まり、大変だったようです。このNPOの復旧のための寄附金も集めているようなので、可能な方はご協力下さい。 そこで、行動派の若手新宮市議のなみかわてつじさんと偶然出会いました。ツイッターやブログでこの人が一番早くから必要な情報発信をしていたので、お会いできてよかったです。さっそく現地のニーズをいろいろ教えていただき、遠方からできる協力をします、と約束しました。なみかわさんと議論したのですが、やはり現地から全国への情報発信がスムーズな復旧のカギをにぎるんだろうなぁと。新宮市や紀宝町などが公式ツイッターを始めたこと自体、この地域ではすごく革命的なできごとで、印象的な変化の一つだと思います。ただ、つぶやく内容が防災無線とほぼ同じで「市から市民へのお知らせ」的な一方通行のものだけじゃなくてもいいよね、という点で一致。ツイッターは全国の人、地域の人が同時に見て、瞬時に助け合えるメディアなので、ご意見募集とか、アイデア募集とか、具体的にこの道具を貸してくれる人/寄贈してくれる人いませんか?とか、現地に住む人、現状どうなっている? とかをやりとりできてもいい。その点、十津川村は上手にツイッターを使っているね、なんて話をしました。 その日は、また強く雨が降ってきたので、暗い夜道を紀宝町にある実家まで帰宅。
翌朝は、紀宝町の災害ボランティアセンターに行って、活動に参加しました。朝9時に受け付け。ざっとみたところ、平日にもかかわらず、50人ほどのボランティアが集っていました(個人参加以外にも団体参加でもっと数はいたようです)。東京、大阪、石川、愛知、滋賀、三重などから集った初対面の面々が、即席のチームを組んで、共同作業です。社協のボランティアコーディネーターの方が、ニーズのマッチングをしています。「●●地区のAさんのお宅では、水に濡れた畳をあげてほしいそうです。男性4名ほど、誰かお願いできませんか?」とか「××地区のBさんのお宅では、敷地内に入った泥をかきだして欲しいそうですが、どなたか5−6名でお願いできませんか?」と声がかけられ、それぞれが手をあげて集合。その場ですぐにリーダーを決めて、地図とニーズ書類を受け取って、さっそく移動開始。僕たちのチームには、経験者(といっても前日活動した人)がいたので、いろいろ勝手が分かっていて、助かりました。必要と思われる道具をストックヤードから借りて、現地へ移動します。 僕たちのチームは5人いて、一人は大阪、一人は滋賀、一人は愛知、一人は地元の18歳の青年でした。大阪の人が車を出してくれたので、わいわい言いながら、活動現場にすぐ到着。ボランティアをする側も初めてな人が多いが、お願いする方も初めてで、お互いがぎこちない感じ。でも挨拶をして、事情を伺い、作業を始めると、どんどんチームワークやコミュニケーションがよくなってゆく印象でした。僕はチームリーダーをやらせてもらったのですが、皆、自分の役割を見つけ、適宜必要なことをやってくれるので、大変ありがたい。部屋にあるお荷物を隣の部屋に一時移動し、重くしめった畳をひっぺがえす。浸水から10日以上たっているので、すでに畳はカビだらけ。厳しい匂いをなんとかマスクで防ぎながら、畳を運び、集積所に持って行きます。聞くと水を含んだ畳は100kg近くあるそうで、男4人でふぅふぅいいながら運びました。集積所まで100mの距離がえらく遠く感じます。ふだん体をつかっていないのがあきらかな私たち。すぐにバテそうになりました。メンバーのなかには、事前に手を痛めている人もいたようなので、災害ボランティアセンターに電話して、急きょ一輪車を借りることに。「すぐ持ってきます!」と柔軟な応答。これだけでもだいぶスムーズになりました。「一輪車ってネコっていうよね」「え?モッコじゃないの?」とか、くだらない会話で、ひとしきり盛り上がる5人。
あっという間の一日でしたが、現地で活動することで、いくつかのことが実感としてわかりました。やはり報道を見ているだけでは伝わらないものがあるんだなぁ。 紀宝町の災害ボランティアセンターでは、県外者のボランティアも広く受け付けています。紀宝町の鵜殿駅前には、宿泊施設「ビジネスホテルサンライト」というのもあり、そこで泊まって15分ほど歩いて災害ボラセンまで行くことも可能です。JRと代替バスがあって、車が無くてもたどりつけるので、よかったら、一度、熊野に足をお運び下さい。僕の印象では、特に紀宝町と、新宮市の熊野川町が、とくに要ボランティアです。 本当はあと1日滞在して、新宮市の他のエリアにも入ろうと思っていたのですが、台風15号接近のニュースを聞き、急きょ帰京。なんとかぎりぎりで東京の家にたどりついた始末です。 熊野には、ぜひまた行きたいです。行って何かをしたい。みなさんの応援・参加をよろしくお願いします。 僕が直接聞いてきたニーズを解決するために、柔軟に使えるお金を集めています。 以下の郵便振り替えの口座を新たにもうけました。 口座記号番号 00180-3-362483 加入者名 青木将幸 各自治体の義捐金、寄附金窓口に入れていただいたり、先ほど紹介した共育学舎さんに寄付してもらってまったくOKなのですが、せっかくだったら青木くんに託してみようかな、と思った人はこちらに入金願います。 使用使途は1円単位でこちらのページで必ず報告いたします。 今のところ、台風で失った店舗や事業所、経済自体をとりもどしてゆく手だてに役立つ支援にシフトしようかと思っています。個々人へゆきわたる義捐金や災害ボランティアの活動資金も大事ですが、今回の台風12号の被害で、地元の仕事場自体が大きく失われていることも事実です。紀宝町では300近くある事業体のうち、おおよそ100が壊滅的なダメージを受け、廃業を検討しているという話も聞きました。地元に仕事がなくなると、その地域に人が住めなくなってゆきます。地域でできる仕事を興してゆく、地域でお金や仕事をまわしてゆける、そんな展開がどうできるか、熊野に住む人たちと一緒に、少し考えてみようと思っています。応援よろしくお願いします。 以上です。 おまけ 紀伊半島の現状をつかむには、以下のサイトがオススメです 紀伊半島復興新聞 http://paper.li/aokimarky/1315375607
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