――― Marky on the WEB 2012/03/03
僕が東京に出てきたのは、18歳のころでした。東京に来たときに「海も山もないところだな」と感じたことがあります。関東平野は広く、出身が熊野地方で、「海すぐ山」わずかな平地にへばりつくように人が暮らしていました。東京に出て来た3月、一人暮らしのアパートはとても寒く、水道から出る水も、なんだか違う味がする。「東京は、あまり長くいる所じゃないかもな」と思ったりしました。 しかし、住めば都。東京には東京の魅力があります。ここでしか出会えない人々や、そこでしか学べないこともたくさんあります。僕は、東京農工大学の農学部森林科学コースで4年間学びました。それから、小さな企画会社ワークショップ・ミューに5年間勤めて、世の中の基本的を知りました。その後、自分の事務所を設立して、2012年の今、9年が経とうとしています。 僕は36歳になりました。気がつくと、出身地の熊野で暮らした18年と同じ年月を東京で過ごしたことになります。年齢を重ねるにつれて「いつまで東京にいるんだろう?」という自問が湧いてきます。元々、東京で学んだことを出身地で活かすつもりじゃなかったのか。日本の林業や、田舎を大事にする気持ちが強かったはずじゃないか。 何度か、熊野に戻ることや、関東近郊の田舎暮らしを検討もしましたが、暮らしを建ててゆけるかどうかの自身がなく、ふんぎりがつかない時間もありました。18年も東京にいたので、つい、仕事や人間関係のある東京から離れるのが怖くなっていたのです。 そんな時にやってきたのが、2011年でした。3月に大きな震災があり、僕たち家族はその時、淡路島にいました。妻の実家があって、春休みをかねて帰省していたのです。震災直後、すぐにでも東京に戻ろうとしましたが、交通機関がスムーズには動いておらず、戻れませんでした。東京は停電していて、水やトイレットペーパーもない混乱状態という情報もあったので、思い切って3週間ほど、淡路島に滞在することになりました。多くの仕事はキャンセルされ、被災地に向かう仲間たちに、西日本から物資を送る買い出し部隊のような活動をしていたことを覚えています。 震災の混乱がだんだん落ち着いてきた4月に、東京に戻ってきて、元の暮らしを送ろうとしました。しかし、何かが決定的に変わってしまったように感じます。原発事故のこともあり、いつも放射能を心配していたり、日本人にあたえられた天罰のようなものを感じて苦しんだり、解決しようのない大きな難題にぶつかって、もがいているような日々。 それでも「できることをやろう」という気持ちで、自然学校関連の仲間たちが立ち上げたRQ・市民災害救援センターの東京事務所に日参し、ボランティア活動をやることにしました。アウトドアに強い仲間たちは震災の直後から現地に入って活動していますが、僕は寒いのが苦手で、アウトドアにもめっぽう弱いので、せめて東京から物資や人を送り出す側を手伝おうと思ったのです。そんなある日、東京事務所でボランティアをしていた僕に、妻から電話がありました。「熱が出ている、腰が痛い。戻ってきてほしい」と。 自宅に戻ると、ひどい高熱でした。薬を飲んでも落ち着かず、うめき声をあげはじめたので、夜中に救急車を呼びました。上の娘をマンションの隣人に託し、下の息子(当時、まだ母乳100%で生きていた)を抱えて救急車に同乗し、中規模の病院に搬送されました。はじめは「盲腸か何かだろう、大丈夫」と楽観的に見ていたのですが、この病院でみてもわからないので、大学病院に搬送されました。危険な状態なので、すぐに手術が必要だという話になり、わけもわからず僕は手術の同意書にサインをしました。 妻は大腸ガンでした。早期ガンではなく、けっこう進んだガンで、それが腸を突き破り、腹膜炎を併発していました。手術室のとなりに説明室があって、そこで、泣きわめく息子といっしょに、切り取られた部位を見せられ、説明を受けました。ぼくは頭がくらくらしました。しばらく、現実をうまく受け止めることができなかったように思います。息子は、急に母親がいなくなり、母乳ももらえなくなったので、ひどく泣いて、夜通し寝ませんでした。 しばらく入院し、妻はいったん退院しました。詳しく検査をして、再び入院、再手術をし、可能な範囲でガンを取り除くことをしました。腕の良い外科医チームに担当していただき、手術は無事成功しました。ただ、血液中にガン細胞が残っているので、半年ほどかけて、術後の抗がん剤治療に入ることになりました。 妻の入院中に、僕の母が危篤になりました。数年前から煩っていて、だいぶ弱ってきていましたが、62歳という若い年齢で、あっという間に天に召されました。僕たち兄弟4人を厳しくも愛情深く育てた、素晴らしい母親でした。子ども2人を連れて駆けつけたものの臨終には間に合わず、葬儀をすませ、呆然とした状態で、東京に戻ってきました。 しばらくの間、仕事のすべてをキャンセルし、子どもの食事をつくって食べさせ、幼稚園に送り迎えをし、空いた時間は、病室で看病する日々を過ごしました。ガンという病気について勉強し、いくつかのセカンドオピニオンを得ました。なかなかショッキングな病名でもあり、うまく口外できなかったので、ごく親しい友人や、姉の家族が、僕を支えてくれました。気持ちが張り詰めていたためか、毎日をきびきびと過ごしました。絶対的にやるべきこと=幼い子ども達の生活を守る が目の前にあるので、落ち込んだり、悩んだりできない感じでした。 退院後、しばらくはお粥を中心とする食事を家でつくって、妻と食べました。体力を回復させる必要があったので、栄養のあるものや、体によいものを選んで食べるようにしました。妻の実家から、義母にでてきてもらって、おいしい料理をつくってもらい、実に助かりました。 6月から、術後の抗がん剤治療が始まりました。噂に聞いていた抗がん剤の副作用は、長く、つらく続きました。いわゆる「髪の毛が抜ける」タイプの薬ではなく、主に手足が腫れるという副作用が出るものでした。手の皮がむけ、痛み、ひどい時は、大好きだったコーヒーカップも持てないようにもなりました。僕は時々、絶望的な気持ちになり、天を仰ぎました。 夏休み、滋養のある食べ物をゆっくり食べて、回復をはかるために淡路島の実家に長期滞在させてもらいました。子どもたちは、毎日海に行って泳いだり、釣りをしたり、牛を見たり、プールにいって、元気に遊びました。こういう笑顔を久しぶりに見たな、と思う時間でした。 秋になると、台風の季節。実家の熊野で大雨がふって、熊野川が氾濫し、大きな被害を出しました。僕の父方の実家や弟の家、製材工場なども床上浸水で、ひどいことになりました。すぐにでも駆けつけたいのですが、病後の妻や幼い子どももいるので、なかなか行けず、くやしい思いもしました。 どうして、こんなに大変なことが一度に起こるのだろう? と自分に問いました。そんなこと問いかけても、答えがあるわけではありません。たまたま、そういう巡りの年だったのでしょう。 でも、「何かを決定的に変える必要がある」と、感じていました。 私たちの生き方、暮らし方、考え方、食料やエネルギーの獲得方法、子どもたちがすごす場としての地域、いろいろなことを考えて、「東京を出よう」という結論になりました。 淡路島を選んだのは、それが妻の実家だから、というのが大きな理由です。僕の実家、熊野という選択肢もあったのですが、ここしばらくは、妻が心身ともにリラックスできる場所が適切だと思います。 僕自身、淡路島に何度か行かせてもらって、とても素敵な場所だと感じています。自然が豊かで、魚介類や野菜も美味しく、独自の文化もあって、それでいてインターネットも通じるし、スーパーもあるし、高速バスが毎日出ていて、関西にも出やすいものです。淡路島の人々は農業や、瓦産業などで、日々、懸命に生きているように見えます。義父の山田脩二氏は、写真家(カメラマン)であり、瓦師(カワラマン)であるという、非常にユニークな方で、達磨窯という薪で焚く瓦の窯を地域の若者たちと運営し、日々、リアルなワークショップを展開しているようにも見えます。彼と共に過ごす時間が増えるのも、とても楽しみです。 淡路島には、「国生み伝説」があり、イザナギとイザナミが、ここから日本を作っていったと言われています。このストーリー、けっこう気に入っています。おそらく、「もう一度、日本を生みなおす!」ぐらいの気持ちで、自分たちの社会のありようを根本から見つめなおす時期にあるようにも思います。 僕の仕事は、全国各地にでかけていって、会議を進行したり、大人数でアイデアや意見交換をする場の促進役として動いたり、今の時代に必要なワークショップを考案して実施することです。そういう意味では、事務所はどこにあっても構わないと思います。淡路島で培う、よきエネルギーを体中に携えて、北海道から沖縄まで、全国に出かけてゆこうと思います。 また、淡路や熊野をはじめ、日本のステキな地域を大切にし、そこに貢献できるような関わりができればと、考案中です。今後、淡路島や熊野を舞台とした事業も展開してゆくので、お楽しみに。 東日本の皆さんからは、距離が出てくるように思いますが、変わらず、おつきあいいただけると幸いです。東京の三鷹の事務所は、東京デスクとして、しばらくの間、残しておき、志を同じくする仲間たちが集える拠点としようかと考えています。僕も、月のうち1−2週間は、東京デスクを活用し、関東近辺の仕事をする予定です。関東に滞在しているタイミングであれば、交通費等も不要ですので、従来どおりお気軽にご用命下さい。 西日本の皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。自分ができる「はたらき」を、より丁寧に展開しようと思います。引っ越しをきっかけに「一緒にやろうよ」「こんな仕事やってみない?」などと声をかけて下さると、心より嬉しく思います。 というわけで、家族一同、事務所もろとも、淡路島に引っ越します。 うまくやれるかどうか分かりませんが、つながりのあるみなさんにお世話になって、やれることを、模索しようと思います。 引っ越し後も、どうぞ応援のほど、よろしくお願いいたします。 僕を育ててくれた熊野と、僕たち家族を支えてくれた東京と、ご縁のあった全ての皆さまに感謝します。 2012年4月1日以降の、新しい連絡先は以下です。 青木将幸ファシリテーター事務所 ◆淡路島オフィス ◆東京デスク
|